しばらく前に、新型肺炎について記事で触れましたが。
あれから約1か月が経過しているにも関わらず、事態は一向に収束の兆しを見せようとしていません。
そんな中、妙に目につくのがこちらの人たち。
「対案を出さずに批判に終始し、貴重な時間をムダにして事態を悪化させる政治家」
「本来自らがやるべきことを他者に責任転嫁し、恥とも気づかない教育評論家」
本当は今日、これらの人たちについて書こうかとも思ったんですけど。そういったことに時間を費やすのは不毛だし、読んでいる方も気分が良くないと思いますのでやめることにしました。…ここまで書いたら、もうだめかしらん?
で、今回書くのは、新型肺炎についてのブログ主なりの考え。ブログ主のこの病気に対しての基本的な考え方は、以下の2点になります。
①油断・楽観は禁物だが、恐れすぎる必要はない。病気としての深刻度は概ねインフルエンザレベル。
②問題なのは、病気について詳しい分析ができていないこと。そして、いつどのような形で収束するか見通せていないこと。
まず、①については、既にお気づきの方も多いと思いますが、現時点でこの病気は回復率が高く、国内での死亡率は約1%。記事を書いている今日現在では12名の方がお亡くなりになっていますが、毎年数千人…2019年は9月までに3,000人以上がお亡くなりになっているインフルエンザに比べれば、圧倒的に少ない数字と言えます。
むろん、今後はこの病気が変異などで凶悪化していく可能性もありますし、12名とはいえ亡くなられた一人一人の方についてはお気の毒としか申し上げようがなく、少ないから良いなどとは口が裂けても言えないのですが、それでも病気としては「恐れすぎる」のは適切でないと思うのです。かといって、いまだ何の危機感もなく、マスクもせずに人が集まる場所に長時間滞在している人を見ると、「何なのこの人」とは思いますけど。
続いて②ですが、こちらについては端的に言うと、「未知なることへの恐怖」ということになります。この病気、おそらくは多くの方が上に書いた「①」に近い認識をお持ちだとは思いますが、それでもインフルエンザに対する時のように日常生活を送れないのは、「治療の道筋が定まっていない」「病後に完治したかはっきりしない」そして「インフルエンザのように時期が過ぎても収束するかわからない」という背景があるから。
かつて読んだ小松左京氏の「復活の日」という小説に、以下のような一節がありました。
「どんなことにも終わりはある。ただ、どんな終わり方をするかが問題だ」
結局、人は先を見通せないことが一番不安になるし、そういう時には用心するしかなくなるんですよね。。
なので、今は経済活動を始めとして数多くの問題が拡大しつつあるのですが…次回はそのあたりの「もやもや」について、もう少し詳しく書いていきたいと思います。